独り、殻に閉じこもり、僅かな支援者に支えられながら、自分の見つけた小さな光だけを見つめ、独りよがりに、道筋のない処をうろうろしていると云った感じで画を描いて参りました。
師もなく、美術大学にも進みませんでしたので、技法などを含め、全てが自己流。その危うく覚束ない状態の中、当然ながら、自分の限界は、常に、見えたり隠れたり・・・。
その限界が見えては深く思い悩み、その限界がふと見えなくなったりしますと、都合の良い思い違いをし、驕り高ぶってしまったり・・・。
そういった絶望と傲慢・・・、浮き沈みの中に、創作の業があるのでしょうか。


そんな、拠り所の無い身の自分が、絵を描いてゆくにあたり、先ず、指針としたものは、古くから、多くの人々に敬われ愛され続けてきた、仏教美術の美しさでした。



工学院大学在学時に仏教美術に興味を引かれ、卒業後、二年ほどを費やし、画帳を手に、アジア諸国の仏跡を遍歴いたしました。


その後、独学で日本画を学び、胡粉を主とする独自の技法を用いて、宗教画が持つ清浄な世界観の表現をひとつの指針として、天・自然・人との共生、その一体感に拠る法悦感や慈しみの情などを織り込めようと、ただただ、絵筆を重ねております。




技法について。


生来、目立つのが嫌いな性格で、絵においても、地味で幽かな風合いを求めました。


光沢や凹凸の無い柔らかな絵肌、色彩が画面の裏側の奥の方からうっすらと透き通って見えているような、柔和な色合い。そんな柔らかな絵肌を求めた結果、現在は、胡粉を主とする技法に、とりあえず、落ち着いています。


日本で、古くから使われてきた、牡蠣の殻を粉砕して作られた白色絵具の胡粉。
薄く溶いた胡粉を何重にも重ね塗りをして、白く清く画面を調えてゆくのは、古来からの日本画や人形面などを彩色する主要技法ですが、その中でも、面を胡粉で白く調えた後、薄い顔料を丹念に幾重にもたんぽで叩きながら彩色をしてゆく能面の彩色方法に、とても日本的な深い妙を感じました。


その手法を参考とし、わたくしも、胡粉を顔料で染めてゆく…と云った感じの独自な描法を用い、白く調えられた平面を絵筆で幾重にも叩きながら彩色しています。




以下に、少しだけ、美術誌などに掲載させて頂いたコトバを記しておきます。


『まだ若い私は、夢うつつの中で絵を描いている状態で、達者な表現方法も知らずにうろうろするばかりです。
特に美術を学んできていない私にとって、受賞がひとつの激励となったことは確かなのですが、受賞したことと、今後、魅力的な絵を描いてゆけるのかは、全く別次元のおはなし。
たった一度の小さな表舞台だけで、ひらりと散ってゆくのも良いかな、などとも考えています。(20代後半)』 


『「祈る」と云う行為に劣等感を持っている。
種々の信奉者のように、絶対帰依の心を持つことができないのです。
そのような自分には、虚栄心に依って、又、劣等感の裏返しとして、帰依の心に対する想いを描くほかありません。
しかし、それを幾十年も重ねてゆけば、「祈る」と云う行為に近付いていけるのかも知れません。』


『様々な色や形の花や葉が、大地を彩るように。白い月の光が、空を虹色に彩るように。個性も現代も主義主張もなく、ただ、無為に、白く透明に、小さな画面を幽かに彩ってみたい。』



加えて、一言二言…。


師も居らず、
美術教育も受けず、
独り善がりに
画の道を模索してきました。
身の丈以上の理想を
いたずらに掲げ、
自分なりに
懊悩し、
精進も致しました。
ただ、
画は
どうあがいても、
繕っても、
自分以上のものは現れず、
そこに
反省材料となる〈現実〉が
あらわれるのみのようです。
ですが、
辿ってきた〈現実〉の
その変遷は、
見返してみますと、
いとおしくもあります。
そして、
今後も
現実に抗うように、
あがきながら、
繕いながら、
神仏に祈りながら、
画の道を
模索してゆきたいと
想うのです。



法悦感
と云う言葉に惹かれます。
事実、それを求め、
また、
その感覚を与えられるような画が
描き出せぬものかと、
求め続けてもいます。



衒いのない
自己顕示欲のない
絵を、
葉を
数枚 描いて
自然の息吹きを
表すような
絵を、
どうにか
描けぬものか
…と、
折々
挑んでおります。



庭の一隅の
ほんの小さなものの中に
〈無辺〉の広がりを見つけては喜び、
それが描きたくて
ごく小さな絵を描く…。
小さな世界を描いた小さな絵は
容易く描けますが
そこに〈無辺〉を入れ込むのは
叶わぬ夢
至難の業なのですね…。



花の 色
鳥の 色
風の 色
月の 色

自然の中の
色の配色は
やはり
とても自然で、
無為であるため、
いつまで見ていても、
飽きることがありません。
日々、
祈るような面持ちで
その配色の妙を
学ばせていただいて
おります。



自然と拝みたくなる山があります。
ヒマラヤの聖山などが
そうでした。
でも、
いまは
どんな山でも
自然と拝みたくなります。



蓮。
東洋では
絶対的な
普遍的象徴
だと思います。
太陽



ほとけ
原初的な
神々しさを、
多くの人が
この花の中に
見ます。
この花の
呼称
『ha-su』
『ha-chi-su』
『ren』
『ren-ge』
『kamal』
『padma』
『nilufa』
『lotus』
も、
マントラのようで、
どれも
気品があって
とても美しい。
そして、
この花は
とても
可愛い。。♪



天・自然と共生し、
ひたむきに生きる人間の美しさ…
こころの美しさを、
中性的あるいは
両性具有的な
菩薩のお姿をお借りして
表現しようとしておりました。



余白…
間…
あたたかみがあって
冴え冴えとした
余白…
間 …
音楽さえ
聴こえてきそうな
余白…
間 ……
高望みとは
承知の上でございます。
いつまでも
求めてゆきたい。。



天は円なること張蓋の如く、
地は方なること碁局の如し。
天円地方などと説く
古代の宇宙論に
魅せられます。
そこには、
天地を繋ぐ
龍が
宙に遍在したりしていて、
とても、魅力的です。
画を画く上では、
現実的な地動説ではなく、
空想的な天動説を
信じていたいものだな…と、
時折、
想うことがあります。



月のひかりは
やさしくて…

































などと、
ささやいてくれます。



全天が白く見える曇り空…。
単調な『白』の中にも
無限の『白』の階調があって、
その『白』の奥行きを
ひねもす
仰ぐように眺めておりますと、
なんだか
こころが落ち着いてまいります。
.
.
.
.
灯りを灯す。
灯りを供える。
灯火を灯す人々の姿は、
時に、灯明よりも
神聖で美しいと感じます。




『人が舞を舞う』姿が好きで、
多く観てきています。
その中、
人の存在が無となり、
『舞』だけが、
そこに存在しているかのような
真なる『舞』を、
一度だけ
観た事があります。
チベットの老僧による
静かな舞踏でした。


太陽ほど
人に
畏怖され
且つ
崇められたものは
ないでしょう…。
絶対的な『円』です。
ですが、
いまは春…。
四月の太陽は
万物にあたたかい光を
届けてくれる
ただただ
〈ぽかぽか〉と優しい存在
…と
言えましょうか。



西の空に沈む太陽
朱に染まる空
ことさら、
日想観

コトバを出さずとも、
なんだか、
とても
神々しくて
うつくしい。
どのような場所から観ても
変わらずに
うつくしい …とは、
さすが、
お日様、
お天道様。
「入り日の
 影も
 舞ふとかや」



もう描けない …
と、
時々
思いながらも、
10年…20年…と
続けて
描いている。。。
よわいのか
あつかましいのか。。。
精進
精進…
ひらひらひら

不易
なものを
求めてゆきたひ。。。


奥山 忠